LOGIN朝、目を覚ましたイヒョンは、まず自分の手を見た。
誰にも触れていなかった。
椅子にはムジンの上着だけが残っている。昨夜の記憶は夢のようにぼやけていた。
それでも、額にはぬるくなった布が載っていた。
戸が開いた。
ムジンが入ってくると、イヒョンは何となく手を布団の中へ隠した。
「具合はどうですか」
「大丈夫です」
「起きると、めまいは?」
イヒョンはゆっくり上体を起こした。いつもより胸のつかえが軽い。深く息を吸っても、すぐには咳が出なかった。
珍しくて、もう一度深呼吸してみた。
ムジンはそれを見守ってから、食卓に器を置いた。
「お粥じゃなくて、ご飯もありますか?」
ムジンの眉が上がった。
「ありますよ」
「そっちが食べたいです」
ムジンは何も言わず戸棚を開けた。今度は、笑いかけた口元を隠しきれなかった。
* * *
雨がやんだのは昼ごろだった。
ムジンは地図を広げた。紙の端は擦り切れ、ところどころ鉛筆で線が書き足されていた。
「この道は崩れています。こっちの橋は水の下です」
太い指が沢に沿って動いた。
イヒョンは自分の歩いた道を探した。ドユンとはぐれた場所は覚えていたが、その先の方角はわからない。
「上のほうなら、電話はつながりますか」
「前はつながりました。確かめてみます」
ムジンはイヒョンのスマートフォンを受け取った。充電はあまり残っていない。電源を切った。
「もしつながったら、ドユンに。最近の通話にあります」
ムジンの手が止まった。
「家族ですか」
「友達です。一緒に来たんです」
「……心配してるでしょうね」
イヒョンはうなずいた。ムジンは靴紐を引いた。固く結んだ結び目を、もう一度引く。
「一人で外に出ないでください」
「軒下までにします」
「足がまだ――」
「寝てばかりいたら、先に背中が固まってしまいます」
ムジンは敷居と庭を見比べた。結局、椅子を外へ運び、足を載せる木箱まで持ってきた。
イヒョンは笑うのをこらえた。
* * *
尾根へ向かう道で、赤い紐が目に入った。
ムジンは足を止めた。土に打ち込まれた杭の横に、見慣れない数字が記されていた。先月ソリンが話していた測量の印だった。
あのときは、山の麓のことだと思っていた。
銀色の葉が生える岩陰は、ここからそう遠くない。
杭を引き抜きかけて、手を止めた。代わりに地図へ場所を書き込んだ。
尾根では、一瞬だけ電波が入った。
ムジンは最近の通話にある名前を押した。呼び出し音が鳴る前に切れた。もう一度かけても、画面は圏外に戻った。
居場所とけがの状態をメッセージに書いた。
送信中の表示が長く続き、失敗に変わった。
ムジンは電源を切って、さらに高い場所を見た。
道の先の土は、雨に削られていた。
一人なら越えられる。
足を一歩かけて、止まった。
軒下に座っている人が頭に浮かんだ。
ムジンは来た道を引き返した。
* * *
足音を聞いて、イヒョンは顔を上げた。
薬草の袋を持ったムジンは、ズボンの裾だけが濡れていた。
「連絡は?」
ムジンは首を横に振った。
イヒョンの肩が落ちた。すぐに表情を取り繕おうとしたが、ムジンはもう見ていた。
「明日また――」
「ムジンさん」
イヒョンはそのズボンの裾を指さした。
「危ないところへ行ったんですか」
「ちゃんと戻ってきたでしょう」
「答えになってません」
ムジンは袋を下ろし、イヒョンの顔を見た。
「もっと先へ行けました。でも、行かなかった」
「どうして?」
訊いてすぐ、イヒョンは少し後悔した。ムジンが口を閉ざしたからだ。
しばらくして、答えが返ってきた。
「ここに、あなたが一人でいるから」
イヒョンは足に掛かった毛布を見下ろした。
助けてくれてありがとう、では足りなかった。だからといって、何と言えばいいのかわからない。
横に置いたカップを差し出した。
ムジンが目で問いかける。
「お茶です。冷めたかもしれないけど」
「これ、どうやって」
「お湯くらい沸かせます」
ムジンはカップを受け取った。一口飲むなり、顔がこわばった。
イヒョンはこらえていた笑いを吹き出した。
「蜂蜜は入れてません」
「わかりました」
ムジンは最後まで飲み干した。
イヒョンはその間、森のほうを見なかった。山を下りる道はまだ塞がれている。それでも今日は、帰ってくる足音を聞いた。
その音を待っていたことが、少し恥ずかしかった。
ムジンがもう一脚、椅子を持ってきた。
二人は軒下に並んで座った。
どちらも、中へ入ろうとは言わなかった。
家というより、歴史のある施設のように見えた。ムジンは車窓越しに高い塀と正門を見た。紋章を刻んだ鉄の門が開く。車が中へ進む間、手のひらのまめをこすっていた。隣でイヒョンが訊いた。「遠いでしょう?」ムジンは首を横に振った。遠いのは道ではなく、高いのは敷居だった。鞄を膝へ引き上げた。* * *用意された部屋は、本館の隣の別館にあった。ベッドと机、浴室のある静かな部屋だった。管理人は必要なものがあれば呼んでほしいと言い、呼び鈴を示した。ムジンは鳴らさなかった。鞄を置き、まず窓を開けた。庭の向こうに本館の明かりが見える。イヒョンがどこにいるのかは、わからなかった。ノックがした。イヒョンだった。「僕の部屋、あっちです」ムジンが訊く前に、窓の外を指さした。「明かりが三つついているところ」「一人で歩いてきていいんですか」「廊下ですから。崖じゃありません」ムジンは口を閉じた。イヒョンは部屋を見回し、椅子に座った。小屋にいたときのように袖を触り、今日の服は手に合っていると気づいたように、手を下ろした。ムジンはその短い動きを見逃さなかった。* * *夕食には、家族が何人か同席した。
イヒョンの母は、まずムジンの靴を見た。泥は落としてあったが、革の隙間の汚れまでは消えなかった。ムジンは足を椅子の下へ引かなかった。「息子を助けてくださって、ありがとうございます」丁寧な挨拶だった。ムジンは頭を下げた。テーブルには、薬草の確保と研究協力についての書類があった。担当者は必要な期間の費用と宿泊先を提供すると説明した。ムジンは報酬より先に期間を訊いた。「いつまで必要ですか」「分析の結果によります。まず一週間ほどと考えています」ムジンは書類を読んだ。読む速さを見て、母の視線が再び彼の顔へ上がった。* * *署名の前に、ムジンは一つの項目を指した。「ここは変えてください」担当者が身を寄せた。「採取量は保証できません。雨が降れば採れませんし、同じ場所でも状態は変わります」書類に修正が入った。ムジンは日付と範囲を確かめて署名した。母はその手を見ながら訊いた。「以前も、こうしたお仕事を?」「薬草を納めています」間違った答えではなかった。母はそれ以上訊かなかった。代わりに、イヒョンの病状に関する話は必ず医療スタッフを通してほしいと頼んだ。「あの子、期待が大きくて」ムジンは
イヒョンが先に一歩踏み出した。ムジンは椅子をよけて近づいた。足首を見ようと目を下げたせいで、差し出された手に気づかなかった。小さな手が、宙で止まった。「薬草のことで、来たんですか?」ムジンは鞄の紐をつかんだ。「はい」イヒョンはゆっくり手を下ろした。間違ってはいなかった。鞄には薬草があり、担当者にも会った。まだ説明することも残っていた。けれど、間違っていない言葉でも人をがっかりさせるのだと、ムジンは遅れて知った。「そうなんですね」イヒョンは笑顔を作り直した。「どうぞ」* * *病室には花が多かった。ムジンは鞄をどこに置けばいいかわからず、持ったまま立っていた。イヒョンが椅子を一つ空けた。「ここに」ドユンは医療スタッフと話してくると言って出ていった。扉が閉まると、二人は急に言葉を失った。イヒョンが先に口を開いた。「ご飯、食べましたか?」「まだ」「朝から?」ムジンは時計を見なかった。イヒョンは呼び出しボタンへ手を伸ばしかけ、止めた。代わりに電話で軽い食事を頼んだ。ムジンが大丈夫だと言っても、聞かなかった。「ここでは、僕が世話をします」
街は、ムジンの記憶より明るかった。バスの窓に看板と信号が重なった。人々は同じ方向を向いて立ち、信号が変わると一斉に動いた。ムジンは紙に書かれた住所を見直した。病院名の下に、イヒョンの名前があった。それさえ確かめればよいのに、紙を畳んでは開いた。鞄からは、乾いた葉の匂いがした。* * *受付の職員が顔を上げた。「どなたにご面会ですか」ムジンは名前を告げた。職員は画面を確かめ、面会の予約はあるかと訊いた。ムジンは研究員の連絡先を差し出した。短い電話のやり取りがあった。その間、後ろにいた人たちは鞄をよけて歩いた。枝で擦った手の甲と、古い靴がやけに目についた。山では何でもなかったものだった。「こちらにご記入ください」紙が差し出された。名前。連絡先。訪問の目的。ムジンはペンを持った。姓を書こうとして、手が止まった。この十年、村では名前の二文字だけで足りた。ゆっくりと、すべて書いた。職員はその字を見て一瞬顔を上げ、また書類に目を落とした。ムジンはもうペンを置いていた。「研究棟から担当者が参ります」すぐにはイヒョンに会えなかった。ムジンは、わかりましたと答えた。* * *研究員は彼
「自分で行くんですか?」ソリンは鞄とムジンを見比べた。ムジンから店に連絡すること自体、珍しかった。尾根で途切れそうになる電話をつなぎ止め、今日中に来てほしいと言われたときは、けがでもしたのかと思った。ところが、小屋の戸口に鞄があった。「薬草の説明が必要です」「記録は送ったでしょう」「記録だけではわからないこともあります」ソリンはそれ以上訊かなかった。ムジンは手紙を持っていた。読み返して畳んだ跡が、何重にもついている。ソリンは鞄を開けてみた。着替えが二組。薬草。古いノート。「どのくらいいるつもりですか」「わかりません」「なら、お金を先に入れてください」持ってきた封筒を食卓に置いた。前の取引で残っていた代金だった。今度は余分に入れなかった。ムジンが受け取らないことを知っていた。ムジンは封筒を鞄の内側にしまった。* * *ソリンは残った薬草を確かめた。ムジンの留守中は湿気に気を配り、取引の日には必要な分だけ運ぶことになった。小屋の鍵を渡されると、少し妙な気分になった。何年通っても、渡されたことのない鍵だった。喜んでいいのかわからなかった。「あの方、そんなに悪いんですか」ムジンはうなずいた。「それで、行くんですね?」
見知らぬ革靴が庭に入ってきた。ムジンは斧を置いた。先に立つ男が、丁寧に名前を確かめた。その後ろには、標本箱を持った女がいた。「イヒョン様のご依頼で参りました」その一言で、ムジンは戸を開けた。* * *管理人はまず封筒を差し出した。ムジンは受け取ったが、すぐには開けなかった。上質な紙の感触を、手が覚えていた。封筒の紋章も知っている。裏返して、食卓に置いた。研究員が薬草について訊いた。ムジンはノートを持ってきて、採取した場所と日付を示した。春の葉と秋の葉を分ける理由も説明した。女は記録を取り続けた。「同じ場所で、さらに採れますか」「少しなら」「多く必要になるかもしれません」ムジンは顔を上げた。「どのくらい」「まず成分の分析と、同じ結果が出るかの確認から進めます。むやみに大量に使うという意味ではありません」それを聞いて、ムジンは次のページをめくった。管理人は食卓や寝台を見回した。低い天井と古い椅子が気になるようだったが、顔には出さなかった。「こんなところで、一週間も……」ムジンの手が止まった。研究員が先に口を開いた。「記録がしっかり残っていますね。とても助かります」ムジンは彼女のほうへノートを押しやった。